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2008年1月 8日 (火)

服を脱ぐまで王様

台詞を用いて会話をすると、普段会話したことの無い相手とでも会話することが出来る。それは日常の会話ではないのだが、相手の目を見て相手の声を聞いて台詞で会話を続けていくと、不思議なコミュニケーションが取れる。

小学生を対象に演劇のワークショップをしたとき、普段無口な女の子が台詞を言い出すと生き生きとして話し出したことがあった。それを見て他のクラスメートが驚いていた、「あのこがあんなに楽しそうに堂々と話すのは初めて見る」と。逆に、ふだんから騒々しく、やんちゃな男子生徒のほうが台詞を喋るのが恥ずかしいらしく、声が聞こえないほど小さくしゃべったり・・・。その後クラスの中での彼女の存在感は変わったのではないだろうか。

台詞は自分に責任の無い発言、会話。だからのびのびと話せる。

役者、声優を目指す子供たちに演技の指導をしているが、先ず始めは自由に台詞のやり取りをさせる。するとやはり、生徒のいつもと違う一面が出てきて面白い。上手い下手ではない人間味が垣間見える。

さて、台詞にリアリティを追求する段階に入ると、「こんな人間ではないので台詞いえません!」「経験が無いから分かりません!」という声が出始める。借り物の服を自分になじませる段階で、この服の色は私の色、私のサイズではないから着れませんというのだ。

この傾向を私は良いと思う。せりふに袖を通すこと、つまり台詞に責任を感じ始めて戸惑っている証拠だからだ。

しかし次には、これが思い違いであることを理解させなければならない。そしてここからが本題。

台本、戯曲が持つメッセージは社会的な責任を持っている。しかし台詞は役者の本心ではないので、役者が社会的に責任を持つことは無い。

役者が責任を持つのはドラマに対してだ。ドラマを見ているお客様がそのドラマをリアルなことであると感じ、興味を持ち、ドラマの展開を楽しみに追い続け、ドキドキハラハラする、そのことに対しての責任が役者にはある。

だからドラマの中で舞台の上で、役者の台詞は真実でなければならない。

「私は着れない!」といった生徒に着ることの楽しさ、大切さ、難しさを少しずつ理解させる。

台詞のリアリティを追求する上でサブテキストの読み込み、解釈が必要になってるのは前に書いたとおり。台詞の行間に何が行われているか、なぜこの人はこの台詞を喋らざるを得ないのだろうか?時代背景は、育った環境は?延々とサブテキストを作り続ける。

この作業でやっと借り物の服が自分の体にフィットするようになる。すなわち役になる。役者はこの役という服を着替えるのが楽しい。何度でもいろいろな人生を経験できる、ような気になれる。なんと幸せな職業だ!!(収入の低さを除いては・・・)。一度舞台を経験するとやめられなくなるのは当然。

抑圧された社会を改革した歴史上の偉人、ロンドンで二重結婚をしているサラリーマン、人生やり直したいと馬鹿な旦那を捨てる主婦、どんな人物にでもなれる。

しかし舞台を降りたら服を脱ぐ。服を脱いだら王様ではなくなる。さびしくもあり、しかし次にはどんな服が着れるかとワクワクしてしまう。

役者はいざ自分の言葉で喋るとなると途端に不器用。喋りの上手な役者はタレントという別の才能を持っている人ですな。私にはありません・・・。舞台役者はシャイなんです。

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